学会 組織 活動 八尾 (仮)

大阪・河内にある、創価学会の組織から処分されました。学会に恨みがあるわけでもないんで、組織で悶々とされている方の為に出来る事をと、考えてみました。組織は鮮度。その鮮度を上げるお手伝いが出来ればと。ハチの恩返し。

ハチが考えること。今後の学会組織に思うこと。

ボクが処分されてから、「ハチは宗門に寝返った」とか、「学会を潰すグループに入った」とか、「会長を追い落とす会を作った」とか、わけの分からない話しが続出しているみたいです 笑

そんな訳ないのは、ちょっと考えれば分かることなんですけどねぇ・・・

え~と、わたくし学会員ですから!

 

せっかくなんで、そんなボクが「今まで何を思って活動してきたのか」と、いうことから始めたいと思います。

(幹部も誰一人聞きにも来なかったし。そういえば、この1年間誰も来てなかったわ 笑)

 

  • 本門の池田門下生のスタート

 結論から言えば、先生が表に立たれなくなった2010年6月から、広宣流布の「全責任」は弟子の手にわたったのは、明確な事実ですね。

その2010年6月本幹での原田会長の話しです。

「昨夜、本日の本部幹部会について、池田先生から指導がありました。

『明日の本部幹部会については、弟子の君たちが、団結して、しっかりやりなさい。皆が、創価学会のすべての責任を担って戦う時が来ているのである。学会の将来にとって、今が一番大事な時である。ゆえに、私を頼るのではなく、君たちが全責任をもって、やる時代である。私は、これからも君たちを見守っているから、安心して、総力を挙げて広宣流布を推進しなさい』とのことでした。

本日、先生に出席いただけないことは残念ですが、先生の真情を伺うにつけても、もはや甘えは許されません。弟子が、今こそ決然と総立ちする時です。すでにこれまで、戦いのすべては、先生に教えていただきました。戸田先生にお仕えされた若き日の死闘を通しながら、弟子の奮闘が、どうあるべきかを、事細かに教えてくださいました。あとは本門の池田門下が、どう実践するかです。戦いと行動あるのみです。それぞれが死力を尽くして動きに動き、語りに語りきり、励ましに励まし抜いていこうではありませんか!」

それ以降は、先生の指示があるとかないとかの議論自体が不自然に感じています。

いまだに、「先生が残して下さった精神をもとに弟子が広宣流布していく時代」には入っていないのでしょうか?

先生が御入滅されてから広宣流布のバトンが渡るのでしょうか?いつまで先生に頼るつもりなのでしょうか。全て残されているはずなのに。

その上で、先生は末端の私達には、最後の最後まで激励の手を指し伸ばし続けて下さると思っています。それが、私たちの師匠であることは、皆の共通認識ではないでしょうか。

 

  • これからの弟子としての戦い。広宣流布について。

師匠の残された精神を体現していく人間になることと考えております。また師匠の精神を永遠にするために、持ち伝えていくことが弟子の使命であり戦いだと感じます。勿論、それだけではありませんが。

自身の人間革命を出発点として、慈悲の精神で人々に接していき、相手を思いやる心、慈しみ、敬う心を互いに培っていく。全ての人を、分け隔てなく先生の言われる人間主義の眼で見ることが出来るか。これが自分にとって要かと思っています。

人間革命です。それを世界に広げ、悲惨の二字を無くしていく。

理想論、綺麗事と言われそうですが、我が師匠は、その道筋を作ってくださいました。

法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ』

この振る舞いこそが、肝心かなめですね。

 ここを外すと、創価学会じゃなくなっちゃいます。

 

だから師匠が築かれてこられた創価思想を破る人間が現れれば、破折していきます。破邪顕正ですから。

 

そもそも自分ひとりで、池田先生の代わりに広宣流布をするなど、到底出来ませんよね・・・

先生は明確に指導されています。

『これからは、一人がすべてを担うという時代ではない。

これだけの大きな団体であり、多次元に、また世界と連動しながら広がっている大民衆組織である。

しかも何の権力もなく、たえず圧迫を受けながらの前進である。一人や二人の力で、どうなるものでもない。団結しかない。

もちろん組織の機構上、会長という立場の人は決まっていくであろうが、実質は「全員が会長の自覚に立っていく」以外にない。その自覚と責任、行動で、永遠に「広宣流布」へ、「民衆の勝利」へ、進んでいっていただきたいのである。』

1998年青年部3.16記念大会での先生のご指導です。

 

また『其の国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ』との御金言があります。

それぞれの地域において一人一人の自覚と責任、行動で広宣流布を進める時代ではないでしょうか。

自分一人で先生の変わりが務まらなくても、千人万人の人たちが創価思想を体現すれば、世界中を慈悲の心で包み込む事は可能ではないでしょうか。

世界中の同志がその心で立ち上がっても、先生一人分にも満たないかもしれません。それでも良いのではないでしょうか。先生の代わりになど、なれるはずはありません。しかし、庶民が慈悲の大波を起こすことは可能です。これは庶民にしか出来ないはずです。

そして同苦の心を持った一人立つ精神の個々人が、先生に教わった創価思想のもと団結する。これが本門の池田門下の異体同心の団結だと思っております。

では、会長は必要ないのか?

当然、必要でしょう。しかし、広宣流布の闘将は全世界の最前線で戦う同士の方であって、会長は会員を引っ張っていくという存在ではないでしょう。それは、あまりにも酷だと思いますし、その必要はないと思います。

会長は、広宣流布の闘士の学会員を励まし、さらに団結しやすい体制をつくりあげること。一切の不正を排除し、全世界の同志が悲惨の二字をなくすことに集中して戦っていける為に死力を尽くす事でしょう。端的にですが、こう思っております。

ただ口では簡単に言えますが、これは想像を絶する本当に大変な激闘かと思います。会長はとても重要な役割なのだ思います。

「一会員が会長の事を云々するとは、慢心だ!」

そんな幹部の声が聞こえてきそうですが、その原理は

法主の事を云々するとは、慢心だ!」

というのと同じことですから、勘違いしないでください。

「会長を追い落とす会」とやらをボクが作ったとか言われているので、あえて自分の考えを書いているまでです。笑

もちろん、詳細を書けばきりがないので、簡単にですけどね。

 

  • 未来の広宣流布の進めかたについて思うこと

2015年9月27日 光の言葉幸福の曲

『単に“生きている”だけなら、わざわざ苦しい山登りなどする必要はない。登山は、あえて「困難に挑もう」とする文明人の行為である。

宗教もまた、単に“生存している”だけなら必要ないかもしれない。しかし「よりよく生きよう!」「より高い境涯に登ろう!」とした時、正しい宗教が必要となる。登山が文明人の行為であるごとく、宗教も文化人、文明人の証しなのである。「知性なき宗教」は独善になる。しかし、単なる「知性」だけでは、「幸福」を生めない。「知性」が人類に欠けているのではなく、欠けているのは「慈愛をもった知性」である。つまり「智慧」である。これを広げるのが広宣流布である。

ただ純真というだけでは、縁に紛動されやすく、悪しき権威に利用されやすい。自分自身できちんと正邪を見極めていける、確かなる信仰者を一人でも多くつくっていく---

これが今、最も正しく、最も大事な将来への道である。

「学は光」であり、「知は力」である。学理、道理には、国境を越えて、万人を納得させる普遍の光がある。暴君さえも屈服させる正義の力がある。

学ぶのだ、民衆のために!学ぶのだ、勝利のために!

「悩める一人を幸福にするため」に貪欲に学ぶのだ。』

 

先生がこう言われています。先生は貪欲に学べと言われています。もちろん学ぶのは御書であり先生の思想哲学ですね。特に仏法中道の精神が重要だと個人的には感じています。「日蓮仏法と池田大作の思想」(松岡幹夫著)は先生の思想が大変わかりやすく書かれていてます。アフィリエイトはしませんよ! 笑

 

また先生は、随筆 我らの勝利の大道16にて創価」即「地区」であり、「地区」即「学会」である。』と言われています。自分の地区の事は、自分が一番良くわかっている。だからこそ、それぞれの地区が主体者となって、皆で話し合い今後の地区の広宣流布を考えていく。

もっと具体的に言えば、地区への権限をどこまで組織は与えることができるか。だと思います。

打ち出しを待って戦う時代は、とうの昔に終わっているはずです。地区が、慈悲の心で溢れかえっている。他者を敬い、慈しむ。思いやる。そんなことが当たり前に出来る地区にするために、どうするのか真剣に考えることが大切ではないでしょうか。

その上で大切な事は、考え方の基準ではないでしょうか。思想哲学ですね。

そうした時に必要なのが、慈悲の創価思想ですよね。ありとあらゆる角度から、先生が教えて下さいました。私たちには、きっちりとした基準があります。

だから、各地区の立てた(立てる時も含めて)広宣流布への行動をサポートするのが幹部の新しい役回りではないかと思います。

 

  • そうなると幹部や学会職員の必要がなくなるのか

各地区が困っていることはないか。手助けが必要ではないか。また必要なツールや資料などないか等、各地区の方向性に見合った提案をしてサポートする役回りに変わるのではないでしょうか。

もちろん、おかしな方向に進まないように、見ていくことも大切です。でも幹部の方は、地区の意見をどこまでも尊重して、納得と共感の対話で全てを進めていくことを、大前提に対話をしていかなければ、なりません。そうしないと、今まで通りの「幹部にただ従う」という構造のままです。

例えば、STBでこのような内容のものを作って欲しいとか、座談会でこんな内容をやりたいが、みんなが見やすいようなパネルや資料とかは用意できないか?等々・・・

それを、職員の方が必死になって、現場の対応をしている姿を見れば、会員さんも「先生の為という気持ち以外」でも、財務をしようと思ってくれるのではないでしょうか。財務が減っていると、嘆く職員さんと話しをしたことがあります。会員さんの大切なお金をもらうわけですから、会員さんの為に人生を使って頂きたく思います。

(あえて財務の話しを出したのは、職員の方が昨今の財務の減額をとても気にされていたからです。)

 

また、学会職員の方々は、職員の方にしか出来ない仕事がたくさんあるかと思います。地域の広宣流布は、地区が責任を持って推し進める。職員にしか出来ない部分は職員が担う。その役割分担をすれば良いのではないかと思います。だから、職員さんは一般会員と同じ役職は不必要ではないでしょうか?

 

  • 選挙活動について思うこと

地方・国政とありますが、支援を決めるのは幹部ですね。公認は、党でしょうが結局は学会幹部ありきなのは、周知の事実ですね。

ボクは、各地区に支援をするかどうかの決定権を譲るべきだと思っています。そうすれば各地区が主体者の自覚で真剣に取り組むことが出来るのではないでしょうか。

その中で支援をしない地区が出ることもあるでしょう。しかしこれは良い意味での圧力が議員の人たちに加わり、さらに大衆の為に仕事をしようとする原動力にもなりえるのではないでしょうか。

たとえ支援しない地区の中でも支援をしたい人がいるならば、それは自由ですし。

議員さんは、支援、公認を取らなければ実質職を失う。それを阻止しようとなれば、決定権のある人たちの顔色を伺うのは普通でしょう。

それを、悪用する人たちも出てくるかもしれませんしね。

言葉は悪いですが、「議員さんが、会員さんの顔色を伺うシステム」に変更すべきだと思います。

まず地方からはじめて、国政まで全て変革できれば支持者の地熱度も変わるかもしれませんね。

 

かなり簡単にですが、自分の考えをまとめてみました。

もちろん、これが絶対に正しいと言いたいわけじゃないです。

一人ひとりが一番良い方向を真剣に、考えていく時なのだと思っています。

 

そして、下記は誰もが感じているのではないでしょうか?でも、タブーみたいになっていること。それは

先生がおられなくなったら、学会組織はどうなってしまうのだろうと。

だからこそ、先生はこのような期間を作ってくださっているとしか思えません。冒頭での原田会長の挨拶を見れば、それはハッキリとしています。

今、本当に大切な期間に入っているとしか思えません。だからこそ、一人ひとりの使命の自覚が重要だと思います。その地域はその地域の人たちが、広宣流布していくしかないですから。

 

幹部が会合で、「先生は、物事を判断できないほど身体が悪いと、ハチが言っている」みたいな事を発言していたそうです。

ボクは、その幹部を三世に渡って許さない。そんな事を言うはずがないだろ!!

怒ってますよ。マジで。

感情的な話しになりました。すみません。

 

世界平和という大きな単位では、何からすればよく分からないことです。でも自分の足元の地域をどうしていこうかと、真剣に悩むことは出来るし、具体的に行動していく事も出来ると思います。

打ち出しの洪水に飲み込まれて、疲弊した学会員さんが可愛そうです。ただただ可愛そうです。

 

ざっくりですが、ボクはこんな考えの持ち主です。

もちろんこの考え方が、危険思想というのであれば、指摘してください。

以後のブログは、学会活動がもっと歓喜を持って進められる術は、ないものか考えていきたいと思っています。

まあ、ボクはその活動禁止されているんですがね!笑

だからこそ、見えるものも、あるかもしれませんよ。笑

 

追伸

少なくとも、ボクは新興宗教をつくったり、別の組織をつくって上記の事をやろうなんて、思ってませんよ 笑

何より、そんなものをつくる動機も必要性も見当たらない・・・